阪神淡路大震災から28年がたちました。今年は関東大震災から100年目を迎えます。過去にも度々震災に遭ってきたこの国ですが、阪神淡路大震災は、都市計画法が確立した1968年以降で始めて大都市が遭遇した震災であったかと思います。この地震のあと、ボランティアや共助の動きが本格的に広がり、減災といった概念も生まれました。
今日、震災の記憶の継承が問われています。復興の記録は丁寧にまとめられた冊子もありますが、現場で復興に当たったまちづくりコンサルタントが実際に何を見聞きし、どのような役割を果たしたのか?という記録も何かの参考になるかもしれません。記憶のままに書き出し、記述しました。
震災発生から2日目までのこと
発災の朝、阿倍野の私の自宅でもキャビネット内のガラス類が割れる被害が出ました。一方テレビではアナウンサーが「垂水区でマンションが倒壊しているとの情報です」と伝えていました。その言葉の意味がにわかに理解できなかったことを記憶しています。その日の午後は、新開地で進めている再開発事業の保留床の取得先として住宅都市整備公団(現UR)と打ち合わせに向かうはずでしたがそれどころではなくなり、ひたすらテレビで情報をとるしかありませんでした。
その夜ようやく、まちづくりのコンサルティングを担当していた新開地の役員の方と電話が通じました。「街は壊滅や、水がないです。」と聞き、次の日スーパーカブを借りてブルーシートと水を積めるだけ積み、生まれて初めて携帯電話なるものを買い(巨大なツーカーフォンでした)、神戸に向かいました。
大阪から兵庫区までの道中は、見たことのない光景ばかり。電柱が軒並み倒れ、カブは電柱の根元を回り込むか、それを避けて通れる道を探してジクザクに進むしかない状況。その途中では瓦解した木造家屋、1階がなくなっている賃貸マンション、倒壊している高速道路、市民が集まって瓦礫を取り除く光景などを目の当たりにしました。
たどりついた新開地の商店街では、建物の前に人々が集まってブルーシートの屋根をはり、焚き木をして暖をとる姿があちこちに。会長さんは生存者確認のため走り回っており、近くの理容組合の建物が倒壊したというので、数名でスコップを持ち寄って救助に向かわれました。帰りに市役所に寄ってみましたが、途中の階が押しつぶされており、高層棟の1階には多くの人が避難して中に入ることもできませんでした。それが、2日目の光景です。そして3日目には各地で火災が発生し被害が広がりました。
コンサルとしての震災直後の私の活動
震災から3週間後、ようやく代行バスが動き本格的に新開地に通い始めました。地域の方に声をかけていただき2月7日に初めての会合をもったら会場いっぱいに100名以上が集まり、復興について話し合いました。新開地については既存の協議会組織をそのまま復興委員会とし、専門家が参加するまちなみ推進委員会をそのまま建物の診断と復興チームとすることになりました。そして、結束して復興計画をつくることになりました。その動きは随時ニュースにして地域の方が配ってまわりました。
平行して行政による震災復興事業の支援策が決まっていきました。新開地の位置づけは、土地区画整備事業のような面的な整備を伴わない「白地地区」ですが重点復興地域に指定していただき、いろんな制度を動員して個別、協調、共同での再建を進めることになりました。その際に、事務所の代表と「再建は向こう三軒両隣」というコピーを考えて、再建の方法を知らせる簡易なパンフを作成しました。
当時、神戸市の担当者からは「コンサルさんも行政と一体と考えていますので、どんどん進めてください」と言われたことをよく覚えています。彼らは復興の担い手ですが被災者でもありました。到底人手も足りず、神戸市で培ってきた協議会方式、専門家派遣方式をフルに活用するということだったと思います。また、当時は仮設住宅の用地が不足してニュータウンのさらに奥の空地に設置したことが住民の孤立や不便を招いたので、できるだけ市街地で復興住宅を生み出すような再建をしてほしいと言われました。そこで、担当していた再開発事業については、あらためて公団と協議を再開し、復興住宅を供給する前提で早々に事業化できるように取り組みました。新開地では同様に2カ所で法定再開発が、1カ所で共同再建と協調型再建が行われ、多くの市街地住宅を供給することができました。
一方、神戸市全体の動きですが、震災発生から暫くしてから当時の住宅局の担当者から電話がありました。出向くと、前述の「向こう三軒」のコピーを使わせてほしい、それとマンションの共同再建はコープ住宅推進協議会(コーポラティブ住宅を推進していた民間の技術者の非営利組織)でも推進してもらいたい、個別再建は大量の住宅供給が必要になるのでメーカーや工務店で推進するしくみをつくる、という趣旨でした。そのしくみは「復興メッセ」という名前になったと記憶しています。とにかく大量の住宅が必要でした。
神戸市の復興班では地域を担当しているコンサルタントや大学に協力を依頼し、全市内の被災状況を落としたマップを集めていました。それらは市役所内の復興班の壁に張ってつなぎ合わされ、震災以前からのまちづくりの課題を重ね合わせて、第二種市街地再開発事業(六甲道と長田)、土地区画整理事業、その他の手法による白地地区の3つに線引きがされました。そして、神戸を中心に京阪神のコンサルタントが招集された会議で、この広範な土地区画整理事業のエリアを協議会方式で分担して進めていくことについて、官民で相談したことも記憶しています。
一方、国の支援策については、震災から1か月ほどたって特別措置法ができ国会に対策本部が置かれましたが、専門の復興委員会に諮問をしながら決めていくということで、実務は国土交通省の住宅局や都市局が担当していました。私の知人のコンサルタントが住宅局の担当者とのつながりがあり、現場の声はそのルートでも伝えていきました。たとえば、マンション再建や再開発事業、土地区画整理上の実際の進み具合や課題について実情を伝え、事業制度や補助率(当時は5分の4まで引き上げられていました)の適用の期間などに反映されました。直接的に政治に関与していなくても、官僚に正確な情報を伝えることもコンサルタントの重要な役割だとその時認識しました。
これが、震災から1ヶ月少しの動きでした。
まちづくり系コンサルタントは、地域と行政や国の間に立って、試行錯誤しながら実務を推進しました。その役割は地域の方との協働と合意形成です。寄り添うという言葉が適切かもしれません。人生の判断を迫られる計画を決めるのに、いきなり測量して設計するということには、ならないのです。
住民目線で防災活動の経験を積むことの大切さ
阪神淡路大震災の経験は、その後の自治体やコミュニティの防災計画に反映されていきました。一方で私は、コンサルタントよりも地域住民の立場から防災にかかわっていきました。また、中越地震をはじめボランティア活動にも携わりました。
大阪市でも地域防災計画の立案と訓練が始まりました。大阪市内では連合組織、その後は地域活動協議会を通じて、防災訓練や避難所開設訓練が実践されていきましたが、地活協の防災責任者となった私がまず行ったことは、訓練においては一切の儀式は排除すること、行政の防災計画を愚直に実践することでした。ご挨拶は訓練の途中でする、消防署のミニ出初式のようなことはしない、訓練の段取は決めないなどです。当然、地域の役員さんは右往左往して文句も出ますが、震災時に段取りが決まっていることなどありえません。逆に、どこに防火ポンプや救助資機材があり、どうやって使うのかもその場で試行錯誤するような避難所開設訓練です。一通り自分で探すから情報が身につくのです。
地活協の会合にコーディネーターと称するコンサルが参加されたりすることがありますが、現場で実務を積んでいない方は説得力あるアドバイスも知恵も出ません。防災活動に関しては、ぜひ自身の地域の活動に参加されることをおすすめします。
六甲・淡路島断層帯が阪神淡路大震災を引き起こす前の予知では、今後30年以内の地震発生確率0.02〜8%でした。それでも地震は起こりました。これからは南海トラフや上町台地といった自身が本命視されています。地震はいつ、どこで起こっても不思議はありません。震災復興においてまちづくり系のコンサルタントは大事な職能です。復興だけなく、その前の減災においても重要な役割を果たせるのです。これらに従事する人材は阪神淡路大震災の時よりも少なくなっていると思われ、たいへん心配です。まちづくりに関わる行政や専門分野の方々にはこのことに留意され、しっかりと仕事を渡し、貴重な人材を育てていってほしいと切に思いますし、その立場にいる若手の専門家はがんばって将来に備えてほしいと思います。
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