模擬原爆の事実は春日井の方々により発見されました
1991年、愛知県の春日井の戦争を記録する会のみなさんが、国立国会図書館でアメリカ軍の当時の文書を調べているときに、日本各地の地名が並んだ資料を発見しました。
その資料は、日本各地で行われた模擬原爆訓練の投下地点が記されたリストで、合衆国陸軍戦略航空司令部A2局、参謀長補佐官室目標担当部によって作成されたものでした。この表と地図によってアメリカ軍原爆投下部隊五〇九混成群団が日本で実施した投下訓練の全容が明らかとなったのです。
投下訓練は1945年7月20日から8月14日まで行われ、投下地点は全国44箇所におよび、のべ49発の爆弾が落とされました。400人以上が死亡、負傷者も1200人以上にのぼることがわかりました。B29型爆撃機が原爆の衝撃波に巻き込まれずに退避できるように旋回する訓練のため、投下訓練は原爆投下時と同じ状況で行うように司令されていました。一万ポンドの爆弾を格納できるパンプキンと呼ばれるケースが使用され、訓練時は原子爆弾の代わりに一万ポンド(約4.5トン)の火薬を充填しました。それは長崎に投下された原子爆弾ファットマンと同じ形、同じ重さです。
アメリカ軍は7月25日に広島・小倉・新潟・長崎に原爆を落とす命令書をくだします。連合国軍は7月26日にはポツダム宣言を日本側に示しますが、日本の最高戦争指導者会議はこれを無視します。そして、8月6日、広島に最初の原爆が投下されます。その後も、8月8日に模擬原爆5発が各地で訓練され、同じ日にソ連が日本に宣戦布告、翌日長崎に2発目の原爆が落とされます。日本の降伏が決定的となった8月14日、アメリカ軍としては保有原爆が一個もない段階でしたが、愛知県春日井や豊田に7個の摸擬原爆が投下されました。そして、8月15日、終戦を迎えました。
大阪での投下地点と被害の全容
先のリストの中では7月26日に10箇所が記され、その一つに「大阪府大阪市市街地 同市東住吉区内」とだけ記されていました。歴史学者の小山仁示関西大学名誉教授(故人)が詳しく調べた結果、投下地点は現在の東住吉区田辺二丁目であることがわかりました。1945年7月26日の9時26分に空襲警報が鳴り、田辺の上空にB29爆撃機が1機だけ近づいて、田辺小学校のすぐ北側に模擬原爆が投下されました。死者7人、重軽傷者73人、倒壊など485戸の被害が出ました(昭和20年大阪市戦災概観)。
田辺模擬原爆の証言集の編集と慰霊碑の建立
1999年、田辺地域の歴史とまちづくりを考える会の有志は報道でこの史実を知り、田辺の模擬原爆が広島、長崎への原爆投下とつながっていた事実に驚き、地域にチラシでお知らせするとともに体験者を探しました。田辺地域ではこの爆弾は長い間、普通の空襲で1トン爆弾だと思われていたのです。よびかけに応じて多くの体験談や当時の様子を描いた絵、地図などが寄せられました。
犠牲者のお一人の遺族である故・村田安春さんは、この事実を後世に伝えたいと考えて、投下地近くに自費で慰霊碑を建てることを希望しました。そこで、考える会は小山仁示教授に指導をいただいて碑文を起草しました。
合わせて、当時の様子を知る人々に聞き取りを行い証言集に取りまとめました。新たな証言が寄せられる度にその後も追加をしていきました。また、小学生向けの冊子も制作しました。
世代を超えて語り継ぐ戦争の悲惨さ
田辺の模擬原爆追悼式典は毎年開催され、被災者が若い世代に語り継ぐ貴重な機会となっています。
中学校の教師として学徒動員で生徒を引率していた時に被災された龍野繁子さんの生々しい証言や、差別を恐れて広島で被爆したことを家族にも秘密にされてきたけれど大阪で田辺の模擬原爆を知り証言活動を始めた飯田清和さん、長崎で被爆した体験を世界各地で証言を行ってきた山科和子さん、そして大阪空襲訴訟を伝える会の安野輝子さんをはじめ、多くの方が戦争の悲惨さ体験にもとづくお話をしてくださいました。
また、この史実をもとに地元在住の児童書作家の令丈ヒロ子さんが「 パンプキン! 模擬原爆の夏(講談社青い鳥文庫、絵:宮尾和孝)」という本を書かれました。
2022年に開催した追悼集会では、西東京や敦賀での模擬原爆投下を調べている方々も参加されました。広島で黒い雨(原爆投下後に降った放射能物質を含む雨)を浴びて被災した被害者が未だに支援が受けられない事実を紹介した、新聞記者の小山美沙さんも参加されました。
毎年、近隣の小中学校が10校前後参加して、生徒代表が追悼の言葉を述べてくれます。田辺の模擬原爆は広島や長崎での原爆投下を身近に考える機会となります。追悼集会後に広島を訪問する中学校もあります。広島の平和記念資料館には模擬原爆についての詳しい資料も展示されています。
この記事を読まれたら田辺の模擬原爆の碑を一度訪れてみてください。
Bookmark