はじめに
桃ヶ池公園と長池公園は、3つの池による多彩な表情と、花や樹木が四季を通じて織りなす風景が一番の魅力です。 一番北にある桃ヶ池から南の長池までの距離は1.5キロメートルに及びます。池の名前は昔と現在とでは異なり、伝説や大阪の都市史も興味深いです。では、3つの池の歴史から。
3つの池と公園の歴史
明治時代の地形図(明治32年大日本帝國陸地測量部発行)をみると、最新の見取り図とはちがって、3つの池はほぼつながっていたことがわかります。1925(大正14)年に大阪府東成郡田邊町役場が発行した「田邊町誌」の第四節水利の項目に「北股ヶ池」「南股ヶ池」「池田池」の3つの池についての記述があります。こちらの原文を現代語で表現してみました。大正時代には鯉やフナの養殖をして釣り船が出ていたことが書かれています。
股ヶ池 阪口街道によって二つに分れ北側を北股ヶ池南側を南股ヶ池と呼ぶ。
北股ヶ池
大字北田邊字股ヶ池八百八十一番地の一にある。大字北田邊の共有で面積六町五反七畝四步(約6万5千平方メートル)東西一町四十間(約180メートル)南北四町(約436メートル)周圍十一町廿間(約1200メートル)水深尺乃至二尺平均九尺(約2.7メートル)ある。 泥水で池岸に蓼(タデ)池中に鬼蓮(オニハス)菰(コモ)菱(ヒシ)等を生じる。 盛んに鯉や鮒の養殖を行い、又鰻(うなぎ)鯰(なまず)等が多く棲息する。 春夏期は釣用の船數隻を浮べて一日五拾銭以上壹圓内外(800~1500円くらい?)で釣ができる。 本池の用水は耕地四十餘町歩(約40ヘクタール)を灌漑した。 池床は年貳百圓内外で貸付くことを例とした。
南股ヶ池
大字南田邊字猿ヶ山、一千二百七十六番地の一にある。大字南田邊の共有で面積四町三反十五步(約4万3千平方メートル)東西一町卅三間五分(約170メートル)南北三町四十六間三分(約190メートル)周圍十二町三分(約1300メートル)、水深廿尺乃至五尺、平均九至五尺、平均九尺(約2.7メートル)ある。泥水で水草魚類北股ヶ池に同じ。池床は北股ヶ池と同じく町民に貸付けて養魚を水は耕地卅餘町步(約30ヘクタール)を養う。
池田池
大字南田邊字麥山一千五十四番地にある。南田邊の共有で、面積三町八反四畝四步(約3万8千平方メートル)東西三十四間五分(約64メートル)南北五町廿四間五分(約153メートル)、周圍十一町五十八間(約1300メートル)水深十三尺乃至三尺、平均九尺(約2.7メートル)ある。 水草魚類股ヶ池と同じく池床は平地と合して年額百圓で町民に貸付け養魚をなさせ本池の用水は耕地三十餘町步(約30ヘクタール)を養う。
阪口街道とは、法楽寺の前の道のことです。地元ではピース通りとも呼ばれています。現在の桃ヶ池が「北股ヶ池」、長池の北側が「南股ヶ池」と推測されます。長池小学校もグラウンドも南股ヶ池を埋め立てた場所に建てられたということになります。そして「池田池」は南港通りの南側の長池が該当するものと推測されます。時代とともに名前も変わっていったのですね。
さらに古い文献では、1701年(元禄14)に編纂された摂津国の地誌『摂陽群談第四 地ノ部 歌ノ名所 俗ノ名所』に股ヶ池の大蛇の言い伝えが記述されています。先ほどの「田邊町誌」の中の「股ヶ池稻荷神社」の記述を筆者が現代語で表現してみました。
「股ヶ池稲荷神社と称して、北股ヶ池内の小島上に祀られています。この附近は数年前まで樹木がうっそうとしてお昼でも暗く人影は少なく、池に大蛇が出没すると人々は怖がりました。昔ここに古塚があり、大阪市高津3番町の角田という人が「神主に依頼して祈祷をしたら蛟龍が天空より降りてすぐに祭事を営むべしとお告げがあった」と夢に見て深く崇敬の念を起こし、親族と相談して塚の北側に社を建てて、丸高丸長の二つの龍王を祀りました。これを信仰するものは病気回復、商売繁盛するというので多くの人が参詣しました。一説には、「摂陽群談」に「股ヶ池は東成郡南田邊村にあって、昔この池に大蛇がいて人々は悪いことが起きると心配した。聖徳太子が人を使わせて池に入ると 淵底は深かったが脛に及んでた易く退治した。よってこれを池の名にした。」とあり、その塚はこの大蛇の塚で人々は大蛇の祟りを恐れて祀っているようです。」
股ヶ池明神は池の西側入口にあります。小山となっておりそこはクスノキやエノキの大木に囲まれた鎮守の森です。入口脇の高札に、御祭神は丸高竜王 丸高大神、丸長竜王 丸長大神と書かれています。
階段をあがって鳥居をくぐると2棟の建物があり、江戸時代の石仏や女神像などが奉納されているようです。また、蛇神様の掛け軸も保存されており、こちらには神仏が同時に描かれています。
境内には狸の石像があります。権七大権現、権八大明神と呼ばれています。また、小山の周囲にも地蔵祠やお不動さんの石仏が安置されています。なお、台風の影響で建物などが損傷を受けていますので注意書きにそって行動してください。
桃ヶ池・田邊公園道路とは?
昭和8年(1933 年)10月、桃ヶ池と長池は周辺と一体に都市公園に定められました。大正から昭和の初めに大阪市は人口が流入し市域を拡張していきました。いわゆる「大大阪」時代を迎えて、当時の関一市長は計画的な都市づくりを行います。そして昭和3年に大阪市で最初の総合都市計画が国の許可を得ますが関市長は公園を重視し46の公園を指定するとともに散歩やドライブのために公園どうしを結ぶ「公園道路」という画期的な都市計画を全国で最初に定めました。そして、桃ヶ池公園、長池公園やそれを結ぶ公園道路がこの時に位置づけられました。これらの道路は長居公園や住吉公園などともつなげる計画でした。
「桃ヶ池・田邊公園道路」は桃ヶ池の南側出入口から長池につながる道路です。ちなみに長池の西側の道は、車両が速度を落とす構造をとりいれた歩車共存道路「長池コミュニティ道路」として昭和55年に再整備されました。
桃ヶ池公園のご紹介
桃ヶ池公園の面積は池を含めて71,448 ㎡です。甲子園球場の1.8倍となかなか広大です。ちなみに長居公園は甲子園球場の9倍の広さです。桃ヶ池を中心に2つの広場とそこをつなぐ園路が4つの橋で結ばれています。エリアごとの特徴についてご紹介します。
北側の広場は池の中の島の中にあります。遊具が充実している広場は小さな子どもたちでにぎわっています。土のグラウンドがあって幅広い世代がバトミントンやミニサッカーなどで自由に遊んでいます。その周囲にはジョギングコースが舗装されており、そのコース沿いに公衆トイレがあります。現在舗装は改修中(3月15日完成予定)です。
一方、南側の広場は、ヒマラヤ杉などの巨木に囲まれた静かなエリアでベンチがいくつか置かれていて、談笑したり本を読んだりお弁当を食べたり、思い思いに過ごせます。そこからは池の中にある「へび島」がみえます。
長池公園のご紹介
2つの長池を合わせた面積は46, 880㎡です。南港通リの北側にある池(旧南股ヶ池)の南北には木立の広場があり、ベンチが置かれています。座ってのんびり水面を眺める人の姿も。南側の木立の広場はバイローカルの日の会場に使われています。道を隔てたグラウンド横にある公園も長池公園です。こちらにはトイレと藤棚、遊具もあります。
また、南港通りの北側に面する公園は明るく遊具が充実していて子どもや家族連れでいつも賑わっています。道路を隔ててニトリ西田辺店(仮称)が間もなくオープンします。
南港通りの南側の池は落葉樹が多彩で、桜、銀杏などが織りなす風景が絶品です。
桃ヶ池公園や長池公園の四季の景色
桃ヶ池公園はヤマモモや桜、ハスの名所として知られています。年間の景色をダイジェストでご覧ください。まず、2月から3月にかけて、園路沿いにハナモモが咲き、この桃ヶ池に春が訪れます。
4月は桃ヶ池のあちこちで桜を楽しめます。北側と南側の広場をつなぐ園路の両側や池の淵で開花する桜が見どころで、公園全体が華やかになります。倒木の恐れがある木は除却され代わりに若木が植えられています。
長池の広場には地域の方が植えた桜も少しずつ育っています。なお、園内ではバーベキューが可能な場所はありませんし、すぐそばに民家がありますのでご注意ください。
5月は新緑がまばゆい季節を迎えます。長池の池畔では花が6月には桃ヶ池公園の西側入口の一画に地元の町会の方が育てているあじさい園が見ごろを迎えます。
7月になると桃ヶ池の南西側の水面をハスの葉が覆いだし、8月にかけてあちこちで花が咲きます。また桃ヶ池市民活動センターの裏庭では水仙が開花します。
長池の池畔では黄色と赤のカンナが咲きます。
10~11月になると桜をはじめ落葉樹が色づきます。長池公園は池畔の散歩道にそって銀杏がうわっており錦秋の頃には黄色い絨毯におおわれます。
1~2月は葉が落ちた樹形を楽しむことができます。カルガモや渡り鳥が水面を泳ぐ姿や、2月中旬には枯れたハスを撤去する光景が桃ヶ池の風物詩となっています。
「摂陽群談」「田邊町史」の原文
脛ヶ池
同郡南南田邊村二アリ所傳云此池二大蛇有テ人民ノ愁アリ于時聖徳太子使人池二入レム淵底深ト云モ漸々脛二及テ易ク退治シテ愁ヲ止シム因テ号之
股ヶ池稻荷神社
股ヶ池稻荷神社と稱し、北股ヶ池内の小島上に鎮座す。此の附近は数年前まで樹木蔚蒼として晝尚暗く人影稀なりしかば大蛇池邊に出沒すとて世人之を懼れたりき。 甞て此所に一つの古塚を發掘せるものありしに、其の後大阪市高津三番町の角田某或夜の夢に「神主に依頼して祈禱を捧げしに忽ち蛟龍の天空より降りて速かに祭事を營むべしと託言あり」と見て深く崇敬の念を起し、親族と胥謀りて、塚の北側に社を建て、丸高丸長の二龍王を祀れり。之を信仰するものは病気平癒商賣繁榮すと傅へ参詣する者多し。
一説に曰く、攝陽群談に「股池は東成郡南田邊村にあり所傳に云へり、昔此の池に大蛇ありて人民の愁なりき、 時に聖徳太子人を使せしめて池に 淵底深しと雖も脛に及んで易く退治して愁を止めしむ。因って之れを號す」とあり蓋し前記の塚は此の大蛇の塚に して、里民大蛇の祟りを恐れて之れを祀り たるものならんか。
北股ヶ池
大字北田邊字股ヶ池八百八十一番地の一にあり。大字北田邊の共有にして面積六町五反七畝四步東西一町四十間南北四町周圍十一町廿間水深 尺乃至二尺平均九尺あり。 泥水にして池岸に蓼池中に鬼蓮菰菱等を生ず。 盛に養鯉鮒を行い、又鰻鯰等多く棲息す。 春夏期は釣用の船數隻を浮べ一日五 拾銭以上壹圓内外にて釣せしむ。 本池の用水は耕地四十餘町歩を灌漑せり。 池床は年貳百圓内外にて貸付くを例とせり。
南股ヶ池
大字南田邊字猿ヶ山、一千二百七十六番地の一にあり。大字南田邊の共有にして面積四町三反十五步東西一町卅三間五分南北三町四十六間三分周圍十二町三分、水深廿尺乃至五尺、平均九 至五尺、平均九尺あり。泥水にして水草魚類北股ヶ池に同じ。池床は北股ヶ池と同じく町民に貸付けて養魚を 水は耕地卅餘町步を養う。
池田池
大字南田邊字麥山一千五十四番地にあり。南田邊の共有にして、面積三町八反四畝四步東西三十四間五分 五分南北五町廿四間五分、周圍十一町五十八間水深十三尺乃至三尺、平均九尺あり。 水草魚類股ヶ池と同じく池床は平地と合し て年額百圓にて町民に貸付け養魚をなさしむ本池の用水は耕地三十餘町步を養う。
【参考文献】
「戦前期大阪における公園道路網計画と桃ヶ池・田邊公園道路の形成(2015 八尾 修司, 山口 敬太, 川崎 雅史)」
「田邊町史(1925)」
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