西田辺の駄菓子屋・みきやが11月末に閉店、55年間の物語をご紹介

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駄菓子屋・みきやさんは、西田辺の交差点から北東に歩いて3分ほどのところにあります。お店がある長池地域とその周辺の子どもたちにとってお買物の聖地でありましたが、11月末で55年の幕を閉じました。

このお店のすぐ近くに暮らす筆者はわが子もお世話になりながらこのお店の歴史を少しも知りませんでした。遅ればせながら、みきやさんにお話を伺ってきました。それはたくさんの子どもたちの成長の物語でありました。

もくじ

パン屋さんに始まり駄菓子屋さんになるまでのお店の歴史

みきやさんは、あびこ筋の一本東側の昭和本通り沿いにあります。今なお長屋がよく残る地域のメインストリートです。お店は4階建てのビルの1階にあります。

営業を始めたのは昭和42(1967)年、入居している建物の完成と同時です。その頃の昭和本通は商店が並んで賑わったそうです。奥さんは当時の様子を鮮明に覚えておられ「下駄屋さん、散髪屋さん、コロッケ屋さん、うどん屋さん、八百屋さん、共栄市場に14~5軒あって、次にうなぎ屋さん、お好み焼き屋さん、花屋さん、蒲鉾屋さん、かなりの店がありましたね。」これらのお店は今はありません。

当初はパン屋などを取り扱う食料品店としてスタート、お店はご主人のお母様が始められました。天王寺にあった青空宣伝社のチンドン屋さんを呼んで盛大だったそうです。嫁いでこられた奥さんがその1年後にお店を引き継がれました。

写真提供;みきやさん
写真提供:みきやさん

お正月に営業する喫茶店向けに、当時の仕入れ先であった馬越パン(廃業)、ダイキパン(廃業?どのような字かわかりませんでした)、敷島パン(現パスコ)の食パンを夜なべでカットするほど忙しかったそうです。

でも新たに登場したコンビニに押されるようになり、お好み好みやたこ焼き、関東炊き、肉まんと、取扱商品を増やしていきました。肉まんは、大きな金属製の容器で蒸して毎夜洗浄が必要だったので半年ほどで止めたそうです。

アイスクリームは当たり付きのバニラ味のホームランバーがよく売れ、飲料はコーヒー牛乳やフルーツ牛乳を店頭で飲んで空き瓶を木製の牛乳箱に返してもらうスタイル。ラーメン、缶詰や果物、さらに冷凍食品なども取り扱いました。

写真提供:みきやさん

その後はテレビゲーム機も置いたそうです。「確かドンキーコングとかいう、上がったり下がったりするやつ。」これが大人にも人気でよく流行って、お小遣いを使いすぎてしまうし、やがてゲームも下火になって止めたそうです。

そこで最終的には洋菓子や量り売りのお菓子の販売にしたそうです。奥さんが電車に乗って木津市場まで仕入れにいきました。その頃ご主人はお勤めで、地域では野球チーム「長池エンゲルス」を仲間と結成したり、子どもたちの練習や小学校の菜園の面倒をみたりしていたそうです。定年されてからは車で仕入れた菓子を運ぶようになり、品ぞろえが充実していったそうです。

このように、みきやさんは昭和の高度成長から現代まで時代を反映した様々な商品を取り扱ってこられました。駄菓子は早い時期から置き始めていて、それを目当てに訪れる、いろんな時代の子どもにとって思い出の場所となっていきました。

閉店を惜しんでお店を訪れるお客さんの声

店にいる子に「あなたの顔を見たことあるんやけど」というとその子が「僕のお父さんちゃうか」。面影があるのでわかるのだそうです。昔は親が子どもとお店にきたものだけど、最近は孫を連れてくるそうです。みきやユーザーは3世代に渡ります。

長池小学校に出向いたご主人を見つけるとすぐに子どもたち輪ができたそうです。それを見かけたハイヒールモモコさんが、私よりみきやさんの方が人気あるわ~、とぼやいておられたそうです。みきやさんの閉店のことを聞きつけた多くのお客さんが、お話を聞いている最中にも次々訪れます。子どもたちに交じって、高校生や大人のご夫妻なども。

みきやさんが閉まることについて尋ねると、小学生は口々に「遠足のお菓子はここでしか買うてへんから困ります。」予算の上限は税込108円とのこと。遠足のお菓子をどこで買えばよいか上級生から教わって、親にお金を受け取って初めてのお買物をする場所でした。

自称みきやOBの男子高校生は「閉店を聞いて買いにきました。小学生の頃から来てたから寂しいです。家でも話題になってます。」

大人の夫妻は海外にいる息子さんの代わりに買いに来たのだといいます。「お正月に息子が帰ってきたらこれを一緒に食べようと思って。」と籠いっぱいの駄菓子を買っていきました。

幼い女の子はお母さんから教えられるままに「いくらですか?おつりください。」と大きな声で練習です。

ぶた麺とよばれるカップ麺が人気で次々とお湯のオーダーがかかります。「これがようやく提供できるようになって。以前はタコせんべいやミルクせんべいなども作っていたけど、コロナでできなくなって。」

駄菓子を通じて、みきやで育った子どもたちの話

いろんな子どもがこの店を訪れ、自ずといろんなことを学びました。中には、商品をポケットに入れてしまう子も。そんな時に奥さんは「お持ち帰りしたらあかんよと」柔らかく声をかけるようにしたそうです。一過性の行為だし、隙をみせた店側の責任でもあると。そして、そのような経験をする子はちゃんと成長しているように思うとおっしゃいます。遊びたくて学校をさぼり、みきやさんにランドセルを預かってとせがんだ子も、今は孫がいるおじいちゃんに。近くの施設の子どもたちも、車いすのままお店に入ってお買物を体験できる貴重な存在でした。

最後に、忘れられない子がいるかと尋ねてみました。「うん、めっちゃおる、やんちゃな子ほどかわいい。」と、二人のお子さんの話をしてくださいました。

どうしようもないやんちゃくれで、温厚なご主人が出入り禁止にまでした子がいたそうです。先日、「おばちゃん元気やった?」と突然現れた子が阿倍野から来たと聞いて「阿倍野の子でおばちゃんが一人だけ会いたい子がおるねん、ミキていうねん。」と話したら、僕ミキですと。まったく別人と思える立派な青年になっていたので信じられず、お互い涙して「おばちゃん、生きててよかった。」「あんた、生存確認に来たんかいな。」

あとは誰に会いたいとミキが尋ねるから、アキラに会いたいと答えたら、どこでどう探してきたのか連れてきたそうです。アキラは隣町にある母子寮に住んでいて、奥さんがその隣町にある持ち帰り弁当店で一時期働いていたときに買いに来て「おばちゃん、今日は遠足やから幕の内買うねん。」奥さんはごはんをおにぎりにして容器を替えてあげたことを、アキラは覚えていたそうです。彼らはまだ、みきやの閉店のことを知りません。

さて、みなさんにはどんな想い出がありますか?

店を閉めることは、寂しいという気持ちより病気もせずに元気なまま早めにやめることができて良かった、みんながお疲れさんと声をかけてくれて何よりとおっしゃいます。嘆願書集めましょうかとか、うちの子が6年になるまであと2年やって、とか熱い応援の言葉も人それぞれ。遠足の買物どうしよう?と言われても「そこまで責任もてんわ。スーパーにいくんやったら袋持って行かな109円とられるで。」とアドバイスは忘れません。

みきやさんは11月30日までは通常営業、その後は袋詰めにした駄菓子を半額セールする予定。建物は閉店後に解体されるようです。

編集後記(続きのお話)

みきやさんに文書の校正をお願いしにいった前日、地元中学校のみきやOB・OGたちが大勢連れ立ってお別れとお礼を言いに来たのだそうです。お店の前で集合写真を撮って、一人ひとり最期のお買物を楽しんだそうです。

お店を入ったところに飾られているお花は、大阪から離れて住む男性が母親に依頼して届けてもらったものだそう。さて、今日は誰が訪れるのかしら。閉店まであと8日です。

閉店後のお話(12月3日)

みきやさんは予告通り、12月3日㊏と4日㊏にありがとうセールを行われていました。3日に立ち寄ってみると駄菓子はすでになくなる寸前で、お越しいただいた皆さんにこれでは申し訳ないと買い出そうとされていました。その間にも次々にお別れのあいさつを言いにお客さんが来られます。お店の中はお花とメッセージであふれていました。みきやさんにご了承いただいたので名前を伏せてメッセージの一部をご紹介します。

みきやさん、最後のお客さん

12月4日の日曜日、午後4時前、みきやさんを訪れた幼い兄弟とお父さん。もうお菓子は売り切れたかた帰ろうとしたその時、一つ残ってるで!みきやさん55年間で最後のお客さんとなりました。

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この記事を書いた人

地域に密着するスタイルでまちづくりのコンサルティングに従事。その経験を活かして大阪ミナミの戎橋筋商店街の事務局長としてエリアのプロモーションやリノベーションに取り組んでいます。一住民として地域活動では阿倍野区~東住吉区のbuylocal活動、町会活動(防災担当部長)、小学校での伝統野菜指導やまち歩きなどを行っています。2013年から2022年まで大阪公立大学観光産業戦略研究所客員研究員。

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