地域寄席・田辺寄席の始まり
田辺寄席は昭和49年、1974年に始まりました。
地域寄席と言う言葉を耳にされたことがありますか?専門の演芸場や劇場とは異なり、公民館や社寺の講堂、お店の一画などの場所を借りて行われる寄席です。地域の世話役が会場の運営や集客を行い、落語家さんは番組づくりで協力するといったスタイルです。
落語を生できくのは初めてという方も普段着で観に行くことができるので、上方落語の普及に一役買いました。また、落語家さんも新しいネタを投じたり、若手の方の修練の場所となりました。
田辺寄席が始まった当初は東住吉区の南田辺商店街にあった暁パンの2階で開催されました。その後、阿倍野区の桃ヶ池公園内にある阿倍野区青年センターに会場を移します。この二つの場所は区をまたいでいますが、同じ旧田辺町のエリアにあります。青年センターはシャープの創業者が青少年育成のために寄付された建物で現在は桃ヶ池市民活動センターとよばれています。
田辺寄席の会場設営
田辺寄席は地域寄席とは言え、本格的な会場設営を行いました。噺家さんに気持ちよく演じていただき、参加者にも寄席の醍醐味を味わっていただきたいとの思いからです。
開催当日の朝から世話人が平台(ひらだい)を積んで、板松(いたまつ)とよばれる背景や上手(かみて)、下手(しもて)の出入口がある袖壁を組み立てて2~3時間かけて設営を完了、終了後に解体します。
田辺寄席はお年寄りにも配慮してすべてイス席にし、パイプ椅子にざぶとんを敷きました。車イスでも安心してお越しいただけるように配慮もしました。
田辺寄席の運営
お客様の参加費やカンパで運営していました。当初は当日券だけでしたが、途中から会費制も導入しました。
会員には様々な特典を設けました。たとえば、寄席文字書家の橘右佐喜さんに会員お一人ずつのお名前を寄席文字で書いていただき会員証に記載しました。毎回の公演に使用した、落語家の名前を書いた「めくり」とよばれる台紙の寄席文字も毎月右佐喜さんが書いて届けてくださいました。
会員の方にはニュース「寄合酒」を郵送と手配りで毎月お届けしました。そこには公演の案内だけでなく、田辺地域にまつわる~田辺大根のこと、田辺の模擬原爆のこと~など、田辺寄席が根を下ろしている田辺地域のできごとも紹介しました。最終号は819号でした。
落語会の運営
番組の運営は多くの落語家さんに支えられました。出番がなくてもお顔を出してくださる方、田辺寄席を観にきて落語家になった方もおられます。四天王とよばれた師匠方から初めて高座をつとめる方まで幅広く出演いただきました。
落語家側の窓口を主に担当されたのは桂文太さんです。五代目の桂文枝さんの4番目のお弟子さんです(兄弟子は、六代文枝さん、四代小文枝さん、文珍さん)。
田辺寄席では、落語を中心に5席で構成、演者と演題は毎回変わりました。落語だけでなく講談や浪曲、奇術や曲芸などの色物とよばれる出物も時折盛り込まれました。
お囃子(はやし)も録音ではなく生演奏で行われました。また、高座の上の設えを替える役割も「お茶子さん」チームを編成して交代で担当しました。
田辺寄席ならではのお楽しみや社会貢献
「仲入り(なかいり)」とよぶ休憩時間には、桃ヶ池が一望できる庭で世話人が用意したお茶とお菓子で一息ついて交流する時間があることも人気でした。
参加者にお配りする、演目の見どころを紹介した紙にはクイズも書かれており、終了後にも景品付きクイズを開催し、たいへん盛り上がりました。
季節ごとに、つきたてのお餅とふるまい善哉(1月)、浴衣で落語を楽しむDAY(7月)、彦八まつりへの参加(9月)田辺大根汁のふるまい(12月)を行い、「特別周年公演」では参加者と懇親会を行うのも恒例でした。
「田辺親子寄席」の開催や「田辺寄席inどっぷり昭和町」への参加、神戸や石巻で「出前田辺寄席」も行いました。阪神・淡路大震災の直後には笑いを届けようと避難所の青空の下で落語会を開催しました。
世話人には落語大工と皆が呼んでいる御仁もおられました。見台や膝隠しなどの落語の道具から、めくり、看板、さらに寄席小屋のミニチュアまでいろんなものを作ってくださいました。
さいごに
田辺寄席は何度も存続の危機に直面し、いろんな方の支えで今日まで続いてきました。でも、地域寄席は各地にできましたし、繁昌亭や喜楽館という立派な定席もでき、寄席を楽しめる場所か増えました。田辺寄席の運営スタッフも高齢化しましたし、高座の資材も老朽化しています。感染症の影響で休演も続きました。
田辺寄席は2023年3月、通算910回で終了します。なお、当日券は完売しています。
https://twitter.com/tanabeyose
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