震災復興とまちづくりコンサルタント

震災復興とまちづくりコンサルタント

いコンサルタントの方では生まれていない方もおられますね。今日、震災の記憶の継承が問われています。復興の記録は丁寧にまとめられた冊子もありますが、現場で復興に当たったまちづくりコンサルタントが実際にどう動き、何を見聞きしたのか?記憶のままに書き出し記述しました。参考にしてくだされば幸いです。 今年は関東大震災から100年目を迎え、過去にも度々震災に遭ってきたこの国ですが、都市計画法が確立した1968年以降で始めて遭遇した大規模な都市直下型の震災でした。この地震のあと、ボランティアとか共助といった意識が大きく芽生え、減災といった概念も生まれました。

震災発生2日後のこと

発災の朝、阿倍野の自宅でもキャビネットのガラス類が割れる被害が出ましたが、テレビのアナウンサーが「垂水区でマンションが倒壊しているとの情報です」に、何が起こっているのか理解できなかったを今も鮮明に記憶しています。その日の午後からは新開地で進めている再開発の保留床処分の相談に住都公団(現UR)に向かうはずでしたがキャンセルとなり、その日はひたすらテレビで情報をとるしかありませんでした。

その夜、まちづくりのコンサルタントとして担当していた新開地の方とようやく電話が通じました。「街は壊滅や、水がないです。」ということを聞いて、次の日スーパーカブを借りてブルーシートと水を積めるだけ積み、初めて携帯電話を買い(巨大なツーカーフォン)、神戸に向かいました。大阪から兵庫区までの道中はすべて見たことのないことばかり。電柱が軒並み倒れているのでカブは電柱の根元を回り込むか、避けて道なりにジクザクに進むしかない状況。その途中では瓦解した木造家屋、1階がなくなっている賃貸マンション、高速道路の倒壊、市民が集まって瓦礫を取り除く光景などが延々と続きました。

たどりついた新開地の商店街では、建物の前に集まってブルーシートの屋根をはり、火を焚いて暖をとる人の輪があちこちに。会長さんは生存者確認のため走り回っており、近くの理容組合の建物が倒壊したというので、数名でスコップを持ち寄って救助に向かわれました。帰りに市役所に寄ってみましたが、途中の階が押しつぶされており、高層棟に多くの人が避難していました。それが、2日目の光景です。3日目には各地で火災が発生し被害が広がりました。

新開地6丁目の震災直後の様子
再建後の写真(上の写真と同じアングル)

震災後のコンサルとしての私の活動

地域の方が集まり、新開地については既存の協議会組織をそのまま復興委員会とし、専門家が参加する町並み委員会を使って建物の診断を行うことになりました。そして、地元の方と復興計画をつくり、ニュースにして配りました。後でふれますが、行政による震災復興事業の支援策は、新開地は「白地地区」に該当し「住宅市街地総合整備事業」を活用した個別、協調、共同での再建で進めることになりました。その際に、事務所の代表と「再建は向こう三軒両隣」というコピーを考えて、再建の方法を知らせる簡易なパンフを作成しました。

当時、神戸市の担当者からはコンサルさんも行政と一体と考えていますので、どんどん進めてくださいと言われたことを覚えています。彼らは復興の担い手ですが被災者でもありました。到底人手も足りない、神戸市で培ってきた協議会方式、専門家派遣方式をフルに活用するということだったと思います。また、当時は仮設住宅の用地が不足してニュータウンのさらに奥に設置したことが住民の孤立や不便を招いたので、できるだけ市街地で復興住宅を生み出すような再建をしてほしいと言われました。そこで、担当していた再開発についてあらためて公団と協議を再開し、早々に事業化できるように取り組みました。新開地では同様に2カ所で法定再開発が、1カ所で共同再建と協調型再建が行われ、多くの市街地住宅を供給することができました。

一方、神戸市全体の動きですが、震災発生から暫くしてから、当時の住宅局の担当から電話がありました。出向くと、前述の「向こう三軒」のコピーを使わせてほしい、それとマンションの共同再建はコープ住宅推進協議会(コーポラティブ住宅を推進していた民間の技術者の非営利組織)でも推進してもらいたい、個別債権はメーカーや工務店で推進するしくみをつくるので、という趣旨でした。そのしくみは「復興メッセ」という名前になったと記憶しています。

神戸市の復興班では地域を担当しているコンサルや大学に協力を依頼し、全市内の被災状況を落としたマップを集めていました。それらは市役所内の復興班の壁に張ってつなぎ合わされ、神戸市のまちづくり課題を重ね合わせて、第二種市街地再開発事業(六甲道と長田)、土地区画整理事業、その他の手法による白地地区の3つに線引きがされました。そして、神戸を中心に京阪神のコンサルが招集された会議で、この広範な土地区画整理事業のエリアを協議会方式で進めていくことについて、官民で相談したことも記憶しています。

一方、国の支援策については、震災から1か月ほどたって特措法ができ対策本部が置かれましたが、実務は復興委員会に諮問をしながら決めていくということで、国土交通省の住宅局や都市局が担当していました。私の知人のコンサルタントが住宅局の担当者とのつながりがあり、現場の声はそのルートでも伝えていきました。たとえば、マンション再建や再開発、土地区画整理上の実際の進み具合や課題について実情を伝え、事業制度や補助率の適用の期間などに反映されました。直接的に政治に関与していなくても、正確な情報を伝えることもコンサルタントの重要な役割だとその時認識しました。

これが、震災から1ヶ月少しの動きでした。

まちづくり系コンサルタントは、地域と行政や国の間に立って、試行錯誤しながら実務を推進しました。その役割は地域の方との協働と合意形成です。寄り添うという言葉が適切かもしれません。人生の判断を迫られる計画を決めるのに、いきなり建設系コンサルタントが測量して整備計画を立てるということには、ならないのです。

新開地2丁目アーケード中
同、仮設による再建

生活者目線で防災を考える

阪神淡路大震災の経験は、自治体やコミュニティの防災計画に反映されていきました。私は、どちらかといえば、コンサルタントよりも地域住民として防災にかかわっていきました。大阪市内では地域活動協議会を設置して、様々なコミュニティ活動に取り組むのですが、そこで防災責任者となりました。当時大阪市では地域での防災訓練が始まったときでした。

私が行ったことは、訓練においては一切の儀式は排除すること、行政の防災計画を愚直に実践することでした。地域のご歴々にはあまり受けがよくなかったかも知れません。ご挨拶は訓練のついでとする、消防署のミニ出初式のようなことはしない、段取は決めないなどです。当然、地域の役員さんは右往左往して文句も出ますが、震災時に段取りが決まっていることなどありえません。逆に、どこに防火ポンプや救助資機材があり、どうやって使うのかもその場で試行錯誤するような避難所開設訓練です。一通り自分で探すから情報が身につくのです。

地活協の会合にコーディネーターと称してまちづくりコンサルが参加されたりすることがありますが、現場で実務を積んでいない場合は説得力あるアドバイスも知恵もいただけません。防災活動に関しては、ぜひ経験者の話を聞き、自身の地域の活動に参加されることをおすすめします。

六甲・淡路島断層帯が阪神淡路大震災を引き起こす前の予知は、今後30年以内の地震発生確率0.02〜8%でした。それでも地震は起こりました。これからは南海トラフや上町台地といった自身が本命視されています。まちづくり系のコンサルタントは震災復興において大事な職能です。復興だけなく、その前の減災においても重要な役割を果たせるのです。

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